社会人という名の幻想に関する一考察

”労働者””成人””市民”という言語は世界共通。けれども「社会人」という言葉は日本固有のものらしいです。私たち日本人は、社会人という言葉の幻想に惑わされていたのかもしれない。頭の蓋を取り除くために、4象限で整理してみました。x軸は他己と自己、y軸は社会と個人です。

A「寄生」

人は誰しも寄生からスタートします。保護(庇護)者あっての自分。生まれたての私たちは誰かに寄り掛からなければ生きられない。無垢の愛を注いでくれる対象は(大抵の場合)両親であり、極めて「個人的な関係」です。

B「社会人(という名の幻想)」

依存先が、特定の個人から会社に変わります。昭和〜平成に掛けての日本では、終身雇用・年功序列のルールに則り、1人1社の奉公が前提でした。奉公の対価として、会社はルールと課題とを与えてくれます。それらは私たちの「働く理由」であり「安心感」でした。社会人ならぬ、会社人というファンタジー。結果的に、その会社で頑張れば頑張るほど依存率が高まり自立から遠ざかる図式が完成します。

C「孤立」

自己と向き合いながらも、社会と関わることのない生き方を選択した人は総じて「孤立」します。良くない例えかもしれませんが、人との関わりを絶った大富豪、社会から遠ざかった年金暮らしなど、幾つかの(世界基準での)パターンがある気がします。

D「自立」

自己責任で、かつ社会的であることの掛け合わせ。言うなれば、「社会との関わりの中で自己と向き合い、そのプロセスの中で依存先を増やしていくこと」が、「自立」なのではないかという仮説です。

日本人が産み出した「(概念としての)社会人」は、会社という幻想に対する一極依存であり、人生のコントローラーを預けている状態に他なりません。私は、A→Dの経路が増えて欲しい(B経由のDはOSの入れ替えに他ならないので相当にしんどい)。そして、Dに属する個の集合体がこれからの会社であって欲しい。皆さんと一緒に議論したいテーマの一つです。

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